からみあっても、まだ
008:今ならきっと間に合うと、誰かがわたしに囁いた
無音の空間だと思った。風のさざめきや人の囁きさえも感じられない。仰臥した藤堂の鳶色の髪が飛沫のように広がって虚ろな奥行きを空ける。藤堂の皮膚は灼けたように色づいている。頑丈な体と規則正しさのこころがけからその色艶は健康的の域を出ない。軍属という肩書にたがわぬ造りの体をしていて得意の戦闘術も心得る。破壊力と敏捷性は抜きんでているし判断力も鋭敏だ。戦闘機の操舵も上手い。三百六十度視野が求められる混戦状態でも躊躇や誤りを起こさない。卜部達部下の位置情報や戦闘力を考え含めた指示ができる。一個中隊を率いることにあまりあるくらいだ。藤堂の戦闘力はそれだけで判断するなら確実に幹部級だ。藤堂がそうなっていないのは所属国が敗戦し占領されたからだ。頼もしさに比例するほど相手にとっては脅威になる。藤堂は実戦積もあり無視されることなどまずない。
藤堂の唇が何か言いたげに薄く開いたが結局何事も発さずに閉じた。卜部の眉が痙攣したように跳ねたが卜部も言葉を紡がない。地面に縫いとめ拘束した藤堂の手首は細い。卜部は痩躯であるから駆動部が細かったりしても驚かないのに、藤堂のそれには不意打ちのようにいつも怯む。抜群の破壊力と機動力と気丈さで、それなのに藤堂の心柱は思わぬか細さだ。あんなにも強くて、すごい、と驚嘆する藤堂の裡に触れると触れたなりに歪んでしまうように反発しない。めり込ませた指先さえ沈んでしまいそうなその泥濘のような感触に卜部はどうしても怯んでしまう。藤堂が鎧うものはとても頑強で、それなのに内側の繊細さは脆弱さえ孕む。
手首の内側を撫でるように滑らせた指先が藤堂の襟の留め具を外す。手首の拘束を解かれても藤堂は卜部を押し退けなかった。されるままに関心さえ向けず無機物のような灰蒼の双眸を潤ませている。卜部が躊躇している間に藤堂の手首は腰の位置まで下ろされる。その一連の動作にさえ卜部を拒否したりしない。卜部に危害を加えることも退けることもない。首を傾げるような動きは緊張を和らげるためであったらしくどこかでぱきりと軽い音が鳴った。藤堂の体は細い。卜部と違い、痩躯なのではなく引き締まっているから細く見えるのだ。軍属として必要な能力は備えている。日々の怠りない鍛錬や幾度もの戦闘が藤堂の皮膚を裂いて骨格を強靭にしていく。藤堂の体に過度の鍛えた熱量はない。どこかしら涼しげでさえある。触れれば熱い。放熱しているのかもしれないと卜部は茫洋と考えた。藤堂の厳しく律する暮らしは生まれついての体質にさえ弛みはない。
釦を一つ一つ外していく。藤堂の無抵抗は必ずしも許容ではない。そこが藤堂の性質の悪さであると思う。嫌悪や憎悪が火花のように閃いてくれればこちらにだって判るのに。藤堂は何でもない顔をして堪えて、しかもそれを周囲に漏らすことさえなく抱え込む。藤堂に何が起きたかを知るのは至難の技で、日常から差をうかがい知るのは難しい。留め具を外された襟を掴んで開けば引き締まった腹部があらわになる。こうして剥いでしまうと藤堂の強靭さはよく判る。負った傷の多さは歴戦の頻度で負った傷の位置は藤堂の出来の良さだ。致命傷になりがちな胴部への負傷は少なく、確率の高い四肢に傷を負う。肩や上腕の皮膚を裂く傷が刳れて溝を作る。感覚としても敏感でしつこく撫でれば倦厭される。構造として皮膚という緩衝材が減っているのだろうとなんとなく思う。人の体は先端になるほど回復は早い。脇腹に負った傷などいつまでも残る。
「傷ばかり見るな。私の弱さだ」
凛とした雰囲気を和らげて眉尻を下げる。凛とした眉筋から睥睨が薄まり、どこか困ったような顔になる。卜部は肩をすくめてから襟をさらに開かせた。
「あんたァ弱かったら俺なんか話にならねェですよ」
藤堂の肌と同化したと思うほどの布地だが卜部が襟を開ければあっさりと剥離した。布は地のままになり床の上へ畝を広げる。落滴した水輪のようだと思う。袖から腕を抜く動きは纏う衣服が和服であるかのように伸びやかだ。柔軟で強い力を秘める腕の屈折の動きで皮膚に反射する微細な明かりが変わる。綾や隠し紋を織り込んだ布地であれば藤堂の動きで四肢は映えるだろうと思わせる。しゃらりと金属の奏でる音さえ聞こえるようだ。
温かな手の平が卜部の頬を包む。卜部は伸ばした指先で藤堂の鎖骨から胸部へと撫でおろした。心臓部には傷跡もなくまっさらの生地のようだ。藤堂が大病をしていないあかしでもある。藤堂の体に刻まれているのはいずれも外的な攻撃によるもので、内部をいじり回すために拓いた傷ではない。断面を見れば逆三角形のように被害範囲が形を成すだろう。藤堂の体は砂丘の波紋のように傷を治すかと思えば思わぬ虚を空ける。その虚が生まれる場所は体の上とは限らない。
ベルトの金具を爪で掻けば藤堂が頷いた。それでも卜部は躊躇するように触れようとはしない。頬に触れる藤堂の手の中へ卜部の情報が流れていくような気さえする。それでいて藤堂からの情報の流れ込みはない。卜部の一方的で独りよがりな感覚であると諫めたい気持ちとそれが快感であることから止めたくない感情とがせめいだ。あけすけになるような解放感と羞恥を孕んだ快感が卜部の体内で奔った。四肢の先端まで駆け抜けて慄然とするのに指先さえも震えはしない。躊躇する理由はない。何度も、時に婉曲な拒みを見せた藤堂さえ無視して解いてきたものだ。抗いがたい何かが存在するかのように卜部の指先はともすればその位置を離れてしまう。つまんだりつねったりしないで撫でる態度にもそれが窺える。卜部の体は現在いる位置から藤堂の体へ踏み込もうとはしない。
「気味が悪いな。お前が、ためらうなんて」
藤堂はふふっと幼子に向けるように慈愛に満ちた笑みを向ける。それは肉欲とはほど遠い清廉なものだ。
「私は何も秘してはいない。お前が知っている、浅ましい体があるだけだ」
手の平は温かくその流れは落涙のように頬を覆う。卜部は一瞬泣いているのかと錯覚したが一筋の水滴さえこぼれず皮膚は乾いたままだ。温かい流れが卜部の体内に入ってくる。抱擁にも似たそれに卜部が怯んだ。領域を犯す強さと同時に赦す優しささえ帯びる。自意識が侵食される危機感に卜部は逃れたくなった。息を吸ってのどが渇く。歯がかちかち鳴った。
藤堂はそれに気付いているかのように穏やかに笑いながらさびしげだ。
まもりたいじぶんがいるのは、よいことだ。
卜部の茶水晶の双眸が見開かれた。集束する瞳孔にさえ藤堂は驚かない。眇められて潤みきった灰蒼は水面のように揺らぎながら一雫さえこぼしはしない。藤堂は落胆も動揺も見せずに笑んだ。
「まだ、…――まだ、いま、なら」
その後は音にさえならなかった。卜部が唇を奪うことで音色が奏でられるのを阻んだ。
食むように歯列を開いて舌を伸ばせば、藤堂も応えるように舌を絡ませる。食みあうように口をわずかに開き食む動きを互いに繰り返す。貪るような深い口付けにいつしか変わった。嚥下する唾液がどちらのものであるかなど疾うに判らない。卜部は流し込みながら同時に吸い上げて呑み下す。藤堂の手が伸びて卜部の髪を掴んで引き寄せた。噛みつくようにむさぼりながら温く湿った柔らかな舌が絡んだ。
「…何が言いたいか、お前に判ってしまったようだな…」
「そうですねェ。あんたの言うこたァ想像つくンだよ。あんたはテメェが悪いとしか言わねェからさぁ」
藤堂が自ら傷を負うのを知っている。その傷の痛みが藤堂を生かしていることも知っている。それでも卜部は目の前で藤堂が切り刻まれて、いくのが。俺が何を失くしてもちっとも痛くなんかないのに、あんたがちょっと負っただけの傷はひどく痛むんだ。
「私に、守られるべき価値などないぞ」
「俺が守るもんの価値くらい俺が極めます。あんたァ黙ってハイハイって言ってろ」
「そんなもの好まないくせによく言う」
「被虐趣味に言われたかァねェや。テメェの体ァ引き裂かれて笑うなんてマゾだぜ」
クックッと藤堂の喉が震えた。音を紡ぐ唇が動くそばから卜部が吸いつく。触れた皮膚が蠢いて卜部の中で音を紡いだ。藤堂は符号のように言葉の終わりに卜部の唇を甘く食んだ。藤堂が紡ぐ言葉はいつも同じだ。
私を捨てろ。
今ならまだお前は口を拭えば知らぬ顔を出来るから。
私など捨てて、
卜部に流れこむ藤堂の情報はそれだけだ。藤堂は卜部に伝える情報を制限している。その検閲をくぐりぬけたのは藤堂を貶めるような言葉と卜部を退かせるような音。
卜部はいつもその音や声に惑う。損害が怖いと言うよりも藤堂にとってはそんな位置でしかないことが虚しい。藤堂が何もかも捨ててさえ卜部が欲しいと言ってくれたら卜部だって応えるだけの心算はある。藤堂は他者を犯してまで欲しがらない。周りのものが二の足を踏むためらいを、藤堂自身が構築する。
「卜部、穢れたものは、あるんだ」
藤堂が何を基準にそういったのかを卜部に知るすべはない。卜部と藤堂では経過が違う。一部を共有してもそれは一端でしかなく、判断に影響するほどの範囲ではない。まして藤堂は、自身で深く考えることができる性質であればなおさら卜部の個人的な同調など求めない。
「避けたいと思う本能には従うべきだ。汚いものは汚い」
唇が弓なりに反った。
「避けることは必要な時もある」
「俺は! 俺ァあんたを避けたいって思ったこたァねぇッ」
藤堂が穢れていると忌むことでさえ藤堂の一部だ。すべてをひっくるめた藤堂という存在が愛しい。何一つ損なってはならない。何一つなくしてはならない。すべてだ。藤堂を構築する全てが愛しさの対象となる。
「俺はあんたが欲しい。穢れていても堕ちていても、あんたが、欲しい。あんたじゃなきゃあ意味がねェ。悪魔でも堕天使でも何でもいい。トウドウキョウシロウが欲しいだけだ」
藤堂の頬を卜部の手が包んだ。しっとりと馴染むその皮膚は潤みきった双眸に予感したかのように潤った。
「俺は俺の意志で堕ちていく。戻る道なんか消え失せろ」
藤堂の灰蒼が集束した。震えるそれを固定するように卜部は藤堂の冷えた頬にあてがった手を外さない。
「…とり、けせ。卜部っ卜部、取り消せ今なら、まだ。まだ、お前は」
「そんなもんは要らねェ」
卜部が唇を寄せた。藤堂の唇は緊張に乾いて割れた。滲む血さえ舐めとって卜部が笑う。
「俺は独りで後戻りする道なんか要らない。たとえ絶えてもあんたと茨をかき分けて進んでやる」
藤堂は噛みつくように卜部に抱きついた。重ねた唇の内側の激しいやり取りに息が切れる。喘ぎながら藤堂の潤んだ灰蒼は落涙した。
卜部は、藤堂を抱いた。
礼さえ言えない。
それでも私は、あなたと。
《了》